Friday, February 27, 2015

真実

Michael Yon
February 27, 2015


Pearl of Truth:

「おまえなんて嫌いだ」  「知ってるよ」

「おまえなんて嫌いだ」  「知ってるよ」

「おい日本,こっちを見ろ」 「あんたは私が嫌い,知ってるよ,知ってる」

「おい日本,こっちを見て,おねがい・・・!」  「おいしい!」



17 comments:

Moguro Fukuzo said...

火病サスペンスドマラ 高麗棒子 

昔、隣の家に高麗棒子という女の子が住んでいた。

棒子の家はひどく貧しく、棒子の両親は品性下劣で野蛮かつ不潔な暮らしをしていた。

棒子はスベタのくせに尻が軽いので、露助や支那衛門のようなゴロツキがしょっちゅう出入りする。

村の偉い福沢先生が、愚連隊とは付き合わないほうがいいと忠告をしてくれたが、俺は年老いた両親や幼い兄弟姉妹を守るため、我が家の周囲をうろつく露助や支那衛門と時に睨み合いになり、やむを得ない場合はケンカをせざるをえなかった。棒子も、いじめっ子の露助や支那衛門の慰みものになるのはもういやだと云い、嫁にしてくれとせがんできた。そのとき、まだ若かった俺はナニが暴れてしょうがなく、うっかり一夜を共にしてしまった。

まあ、近所の女の子とのお医者さんごっこはよくあることで、その延長みたいなものだった。そういうことがあって、俺は棒子への義理があったから、露助や支那衛門の暴力から彼女を守ってやったのである。

全ては遠い過去の、まだ若かった俺の記憶である。

時は経って数十年、俺はさる著名企業の重役の令嬢を妻にしていた。彼女は美しく教養があり、品性が備わっていて生涯の伴侶として申しぶんなかった。棒子のことはすっかり忘れていたが、風の便りでは、米軍相手のバーに出入りし、いかがわしいサービスをするパンパンとかいう酌婦になったという。その後の消息は知らない。

幸せな家庭を築き、満ち足りた暮らしをしていた俺であったが、ある日、家の戸をドンドンと激しく叩く音がする。

「やい、出て来い。あんた、わたいと結婚すると云ったよな。出て来い、こんちくしょう」

戸を開けて出てみると、なんと、高麗棒子ではないか。恐ろしくみすぼらしく不潔で、ズタ袋を被った乞食女の風情である。むろん、俺は棒子に嫁にすると云った覚えはない。ひょっとすると云ったかもしれないが、あれは大昔のことだ。だいいち、おまえのほうで黙って村を出ていったんだぜ、とは思ったが、あんまり騒がれてもご近所迷惑で困るので、暮らしの足しにと多少のカネを渡して、その場は引き取ってもらった。

これがいけなかった。騒げばカネになると知った棒子は、毎日我が家に来て戸を叩くようになってしまったのである。

Moguro Fukuzo said...

私が見た「いわゆる従軍慰安婦」湯川兼一

私は先の大戦中、北支戦線に於て陸軍病院の軍医として従軍し、衛生兵の教育として支那人の無料診療をさせるという、いわゆる実践教育をずいぶんやりました。

私の子供の頃から、すでに五族協和や内鮮一体のスローガンは叫ばれていましたが、それでも朝鮮人のことは「鮮人」又は「ヨボ」、中国人のことは「チャンコロ」と蔑みを込めて呼んでおりました。

これは仕方のない面もありました。 いくら日本人が彼らを公明正大に扱おうとしても、彼らの多くは平気で嘘をつき、恩人を裏切り、借金を踏み倒し、隙あらば物を盗もうとしました。 時には凶悪で残忍な本性を垣間見せることもあり、まったく人間として信用できない民族であるように思われたことが原因だったと思います。 それでも私は 「いつか欧米列強をアジアから叩き出し、すべての民族が仲良く暮らせる共栄圏を建設するのだ」という高邁な理想に燃えていました。

私は軍国青年として育ち、軍医として中国に渡りました。

1942年1月、中国山西省南部のとある陸軍病院に着任しましたが、そこは付近を占拠している師団の司令部の所在地で、私の日常は兵士と現地の支那人に対する衛生指導の明け暮れでした。 そこには軍人専用の「慰安所」があり、病院の軍人たちもよく訪れていました。

兵士たちは厳しい軍規に縛られ、過酷な訓練に明け暮れ、それでいて何時戦場で屍をさらすかもわからない。 そんな緊張に満ちた日常の中でやっと気が抜けるのが月に一回か二回訪れる慰安所でした。そこで元気を取り戻して翌日からの辛い日々に耐える。即ち活力の元が「慰安婦」だったのです。

私は初心でしたので内地ではそのような経験もなく、また売春婦を「汚い」と差別していたのでしばらくは近づきませんでした。 私が「慰安婦」を初めて見たのは慰安所からの依頼で女性たちに衛生救急教育をした時のことです。 慰安婦たちの構成は、日本人が七割、残りの三割くらいが朝鮮人だったと記憶しています。

指導した結果「朝鮮人の衛生観念は酷いものだなあ」などと蔑む気持ちになりましたが「いや、朝鮮人も日本人と同じ天皇陛下の赤子なのだ」と思い直して、ことさら平等に扱おうと勉めたものでした。

半年ほどして軍務にも慣れました。 毎週末に全将校は病院長との会食があり酒を飲みましたが、或るとき酒の勢いで皆と一緒に慰安所を訪れました。慰安所での値段は兵隊は2円で5時まで、下士官は3円で7時まで、将校は泊って10円となっていました。

私の初めての相手はまだ十代で東北出身とのことでしたが、焦りと気恥ずかしさで生きた心地がしませんでした。 しかし、そんな私もしばらく経つと休日のたびに通うようになりましたが、容姿などが好みに合わなかったせいもあり朝鮮人慰安婦を買うことはありませんでした。

当時を知るものとして断言しますが「慰安婦」は公娼そのものでした。 彼女たちは充分な給与を受けており愛想もよかったです。 然し彼女たちの口からは別の物語も聞こえてきました。これは朝鮮人慰安婦に多かったのですが、「自分は裕福な家庭の娘だったのに誘拐されて連れて来られた」とか、「普通の家庭の娘だったが騙されて連れてこられた」 などという嘘をよくついたのです。騙されて連れてこられたと言えば、相手は同情して贔屓にしてくれるだろうという算段があったのでしょう。 日本人慰安婦に比べれば、朝鮮人慰安婦は人気がありませんでしたので、一人でも多く客を取るために、そういった物語を作り上げたのだと思います。

また現在、強制連行されたと偽証する自称・元慰安婦の朝鮮人老婆が存在するのは、 卑しい韓国政府による誘導が主たる原因でしょうが、前述のような嘘を言い続けている間に、自分でも本当にそうだったと思い込んでしまった結果でもあるのかもしれません。

Takeshi said...

アジアの悪友と絶交しよう
Let breach with Asian bad company.

Moguro Fukuzo said...

>これは仕方のない面もありました。 いくら日本人が彼らを公明正大に扱おうとしても、彼らの多くは平気で嘘をつき、恩人を裏切り、借金を踏み倒し、隙あらば物を盗もうとしました。 時には凶悪で残忍な本性を垣間見せることもあり、まったく人間として信用できない民族であるように思われた

Translation: In northern China, we looked down upon Chinese calling them Chankoro and Koreans Senjin. However it was unavoidable to some extent, for however we treat them fairly, many of them remain to be shameless liars, turncoats, deadbeat borrowers, thieves and often showed atrocious and brutal nature. Due to such experiences, we considered them totally unreliable races as humans.


There is some truth in the statement even today.

Moguro Fukuzo said...

Other memos from my note say:

Chinese tell lies while saying hello.
Distinction between good Chinese and bad Chinese is meaningless in China. They are all bad and worse than the bad Chinese.
Chinese put zeros when writing history. 30 men dead will become 300,000 men dead.
Chinese think, say and do differently. They are triple-personality people. Typical example is Chou En-lai(周恩来).
Never trust Chinese.

Moguro Fukuzo said...

Oh I forgot one thing:

Korea is small China.

Anonymous said...


金 学順
各種表記
ハングル: 김학순
漢字: 金學順
発音: キム・ハクスン
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金 学順(キム・ハクスン、김학순、1924年 - 1997年12月16日)は韓国人の元慰安婦。1991年に自ら元慰安婦として名乗り出て多くの証言を行った。各々の証言の真贋については議論のあるところだが、彼女が慰安婦であったことは確かとされている[1] 。

略歴
金学順が裁判所に提出した略歴では親に身売りされたとしている[2]。

以下は韓国挺身隊問題対策協議会の調査による[3]。

1924年:中国の吉林省(当時の満州)に生まれる。生後すぐに父が死没。
1926年(2歳):母と共に平壌(現在の北朝鮮)へ移住 。
1935年(11歳):母子家庭で貧困のため小学校を中退。
1938年(14歳):母が再婚、養父とは不仲
1939年(15歳):40円で妓生を養成する学校の養女に、そこから妓生巻番(妓生養成学校)に通う
1941年(17歳):卒業するが年齢が足りず妓生になれず、養父に中国ならお金が稼げるだろうと、養父に連れられ平壌から中国へ汽車で行く。北京に到着町中で日本軍将校に呼び止められ「朝鮮人だろ、スパイではないか?」と姉さんとトラックに乗せられる。夜中ついた空き家で将校に犯される。翌日、お姉さん共々慰安所に。場所はテッペキチン(鉄壁鎮?)村の中の慰安所で女は朝鮮人5人で経営者はいないが歩哨が隣の部屋にいる。
「軍人達は自分たちでサックを持ってきました。1週間に1回後方で軍医が兵士を連れてきて検査をしましたが軍医が忙しいと来ない週もありました。軍医が来て少しでも異常があれば黄色く光る606号の注射を打たれるのです。」

「私たちのところに来る軍人は部隊の許可を得ているようでした。始めは軍人達が金を出しているのかどうかまったく分からなかったのですが、しばらくしてシズエから兵士達は1円50銭、将校達が泊まりの時は8円出さねばならないのだという話を聞いたことがあります。けれど私は慰安婦生活の間中軍人達からお金を受け取ったことはありません。」

(2ヶ月後)近傍のより前線に近い慰安所に移動。
(1ヶ月後)歩哨の目を盗んできた朝鮮人の男が寝に来る、無理に頼んで夜中に脱出。男と中国で暮らす。
1942年(18歳):妊娠を機会に上海のフランス租界に定住
1943年(19歳):出産
1945年(21歳):2人目を出産、松井洋行という質屋を経営
1946年6月:上海から船で韓国に帰る。
1991年8月:従軍慰安婦であったことを公表、記者会見。
1991年12月:日本国を提訴。
1997年12月16日:死去。享年73。

Anonymous said...

植村 隆(うえむら たかし、1958年(昭和33年)4月 - )は、北星学園大学非常勤講師、元新聞記者、元朝日新聞社社員。1991年(平成3年)、いわゆる従軍慰安婦問題を報道した。当該報道は朝日新聞の吉田証言報道とともに慰安婦問題に関わる最初期の報道であったが、吉田証言と同様、事実に反する記述を含んだ虚偽報道(朝日新聞は誤報と表現[1])であった[2][3][4]。元慰安婦が親によって売られたことを訴状に書いていたにもかかわらず、そこに触れずに作成された記事であったため、意図的な捏造であったと指摘されている(#記事に対する批判参照)[5][6][7][8]。

慰安婦問題の調査を行うために訪韓した時に、慰安婦等の支援団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の幹部だった梁順任の娘と知り合い結婚したとされる[9][10][11][12]。

1991年(平成3年)8月11日、朝日新聞にて、「連行され」「売春を強いられた」慰安婦に関する記事を掲載(大阪社会部時代)[15]。この記事の取材時に韓国にて慰安婦の支援団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」に属する女性と出会い結婚するに至る。妻女の母、梁順任(ヤンスニム、양순임)は同団体会長であり、日本から補償費金を受け取るとし訴訟参加人を募集、その訴訟費用を詐取した件で韓国国内で摘発・立件されていることで知られている[16][17]。(2014年2月、証拠不十分で無罪[18]。)

この慰安婦記事は、女子挺身隊と慰安婦の混同がみられる他、当該の慰安婦がキーセン学校出身であるとの事実が伏せられて記事化されたものであり、それら問題点を指摘する著名人は早くからいたものの、記事の訂正、修正は長らく行われなかった。しかし、記事の掲載から23年後の2014年8月になり、朝日新聞が記事の一部に誤用(挺身隊と慰安婦の混同)があったとする旨の検証記事を掲載したことでようやく記事が是正されるに至った。但し、朝日新聞がこの記事を吉田清治の証言記事とともに長期に渡り放置していたことにより「強制連行された慰安婦」が国際社会において既成事実化されてしまったという指摘もある[19]。

Anonymous said...

福島 瑞穂(ふくしま みずほ、1955年12月24日 - )は、日本の弁護士、政治家。社会民主党所属の参議院議員(3期)、社会民主党副党首、社会主義インターナショナル副議長、学習院女子大学客員教授。

社会民主党幹事長(第4代)、社会民主党党首(第3代)、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)を歴任。


1990年代における活動
1991年、朝日新聞において「14歳で親にキーセンに売られた」と語っていた金学順が、裁判の中で「軍人に無理矢理慰安所に連れて行かれた」と証言を変えた際、福島が、弁護人を務めた。この時、福島が、朝日新聞の虚報に合わせて裁判を有利にしようと工作した疑いがある[60]。

《長年、市民運動や女性の人権擁護に関わってきたフリージャーナリストの舘雅子氏が振り返る。「私は92年8月にソウルのYMCA会館で開かれた『アジア連帯会議』に出席しましたが、それを仕切っていたのが福島さんと朝日新聞編集委員の松井やよりさん(故人)でした。当日、私は会場内で迷って、ある小部屋に立ち入ってしまったのです」そこで舘氏は仰天の光景を目撃する。「お揃いの白いチマチョゴリを着た女性が4、5人いて、日本人と韓国人のスタッフが”ああ言いなさい!””こう言いなさい”と一生懸命、振り付けをしているのです。本番の会議でも彼女たちが登場し、言われた通りに悲劇的な体験と、日本政府に対する怒りを切々と述べているではないですか」元慰安婦たちは操られている。舘氏はそう直感したという。

ところが、台湾人の元慰安婦の番になると”日本の兵隊さんは私たちに優しくしてくれました”などと言い出し、ステージの下に控えていた福島氏や松井氏が大慌て。「“それ止めて!止めて!”と遮り、それでも止めないとマイクや照明を切ったりして発言を封じ込むのです。タイの女性も “日本の軍隊ばかり叩くな!”“イギリス兵はもっと悪いことをした”と反発していましたが、福島さんや松井さんが抑え込んでしまいました。」》[61][60]。

元NHKの池田信夫は言う。「そういう人たちが日本に来て訴訟を起こしたんですね。それも僕ら最初取材し・・番組作ったんですですけど、そのときに僕が非常に今でも印象に残っているのは、金学純ってね一番最初に名乗り出てきたおばあちゃんを、ずーと連れて来てその間NHKのスタジオなんかで一々せりふとか教えていたのが福島瑞穂さんです。僕その時にね、この人何してるのかなーという印象があって、その時はまだ国会議員じゃなかったんですね。要するにもうね福島さんがこうセリフを付けているわけです」[62]

Anonymous said...

また随分古いポーランドボールを・・・w

MM said...

あなたの真実を追求する姿勢に敬意を表します。中国や韓国の嫌がらせや妨害は想定内だとは思いますが、彼らは相手を貶めるキャンペーンが得意なので心配しています。

Anonymous said...

アメリカに正義はあるのか:グレンデール市に対する訴訟から

歴史の真実を求める世界連合会  代表 目良浩一
2015年2月23日

昨年の2月20日に、グレンデール市の中央公園に建てられている慰安婦像の撤去を求めて連邦政府の裁判所に訴訟を起こした。慰安婦像の横の碑文には日本政府に対して慰安婦の人権を蹂躙したことに対する犯罪を認めよと書いてあるのである。それから一年余りが経った今日、カリフォルニア州の裁判所に起こした訴訟の結果が出た。訴状は同一である。地方自治体であるグレンデール市が、連邦政府が行うべき外交問題に介入するのは憲法違反であることが主な訴因である。

連邦裁判所に対する第一審訴訟の時には、著名な弁護士事務所であるメイヤーブラウン社のこのような問題について経験豊かな弁護士を雇い、訴状を作成して裁判に臨んだ。訴訟を起こされたグレンデール市は、当初戸惑った様子であったが、著名な弁護士事務所であるシドリー・オースティン社の弁護士事務所が無料で奉仕することになった。さらに、彼らはメイヤーブラウン社に脅しを掛けて、この訴訟から手を引くようにさせたのである。

一つの手は、米国でよく読まれている経済誌フォーブスに記事を書かせて、いかにメイヤーブラウン社がお金に飢えた汚い弁護士事務所であるかのように記述し、更にシリコンバレーのハイテク会社に脅しを掛け、メイヤーブラウン社との関係を絶つように働きかけたのである。そのために、我々は、別の弁護士事務所を探さなければならなかった。

昨年8月に出された連邦地方裁判所の判決は意外なものであった。憲法違反であっても、原告にはそれを修正させる権利はないというのである。さらに、グレンデール市のやったことは米国下院が2007年に採択した日本批判の決議121号に適合しているので、問題はないとした。つまり、地方自治体が外交問題に介入することに対して、何らの危惧も示していないのである。

この判決は第一に、原告の資格について誤った判断をしているとするのが一般の専門家の見方である。更に、下院の決議は、上院では決議されていないものであるから、米国政府の方針であるとするのも早計である。しかも、連邦政府が独占的に決めるべき分野に介入すること自体が問題なのである。

この決定を受けて、我々はこの裁判を更に展開することにした。一つは、連邦裁判所内で控訴することである。米国の西部地区を管轄する第9高等裁判所への控訴である。もう一つは、連邦地方裁判所の判断を受けて、慰安婦像に付随した碑文に記された文言が市議会で承認されていないことも含め、カリフォルニア州の裁判所に提訴することで、二つの異なった裁判所でほぼ同一の裁判が同時進行することとなった。その間に、弁護士団は著名事務所の弁護士と大学で憲法を専門とする教授を含めた強力なものにすることができた。

州の裁判所に対する訴状は10月22日に提出され、その後グレンデール側からはそれに対して、反乱訴案(アンタイスラップ anti-SLAPP)が提出された。つまり、自治体の行動を制限するために訴訟に訴えたのであるが、根拠が薄弱であるため棄却すべきであるとしたのである。

そして、この訴状に対する判決が本日下された。結果は、同一であった。判事は、日本政府が戦時中に慰安婦の人権を蹂躙したことは明白な事実で疑う余地はないとし、そして、地方自治体は、それ独自の政治的見解を表明する自由がある。極端に言えば、「イスラム国家」を支援する声明をしてもよろしいとして、我々の反論を退け、グレンデール市側の反乱訴案を採択したのである。

判事の声明の中には、「この裁判に対して日本政府の支援がまったく見られない」という発言もあった。すなわち、若し日本政府が我々の訴訟に賛同しているならば、当然その意見の表明があるはずであるという論理であり、「河野談話」で自国の罪を認めているではないかとの指摘もあったのである。

我々としては、これらの裁判を純然たる法理論的な観点から進めてきたが、今までの二つの法廷における判断を見ると、米国の法廷では法理論による裁きというよりも政治的な圧力による裁きがより力を持っているようである。裁判官が具体的にどのような圧力やどの国からの要請を受けているかは不明であるが、日本政府がそれに関して、一切関係を持たないことは明白である。依って、立法や行政から独立しているはずの司法の分野がかなり世俗的な影響力を受けていることを改めて経験した訳である。

「アメリカに正義はあるのか」という疑問自体が幼稚な問いであることは事実である。絶対的な正義は何処にも無いのかもしれない。しかし、米国の司法には、それなりの正義があるという想定で訴訟を始めたのであるが、今日の判決(正式な判決は3月24日に発表されるが、実質的には、今日の決定が公的に認められるだけである)が示したものは、司法の世界もまた、各種の力関係で左右される業界であるということである。したがって、この裁判において勝利するためには、日本政府の大胆な動きが必須なのである。第一には、「河野談話」の破棄であり、第二には、日本の名誉のために働いている人々への積極的な支援であり、第三には、「慰安婦が性奴隷でなかった」事を世界に公式に声明することである。既に、明白に国際的な政治的問題となった慰安婦の件を「政治問題にしない」とか、「外交問題にしない」とかの空論を並べて日本政府が行動をしない間に、日本の名誉は着実に失われていくのである。
以上

Anonymous said...

国連のクワラスワミ報告書
http://www1.umn.edu/humanrts/commission/country52/53-add1.htm

クマラスワミ報告とは、女性に対する暴力とその原因及び結果に関する報告書のことで、国連人権委員会が第50会期における1994年3月4日の決議(1994/45)に基づき、スリランカ出身のラディカ・クマラスワミを特別報告者に任命し(任期3年間)、毎年同委員会へその調査結果を提出させたものである。

日本では、特に、1996年1月4日に提出された日本の慰安婦について論じた附属文書1「戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」の内容を問題視している[1]。クマラスワミ報告は現在の女性問題についての報告を目的としていたが、同付属文書1(Add.1)は、韓国の市民団体からの「被害者は現在も生存している」という強い働きかけを受けて付録された[2]。なお、附属文書2(Add.2)は「家庭内暴力に関する立法」である。

報告書は1996年4月国連人権委員会で作業を「歓迎」し内容を「留意」するという決議が行われている。

経緯
1990年初期に始まった元「慰安婦」の個人補償請求運動が、被害者の主張に賛同する国際世論を導きだしJCL、ILO、ICPO-INTERPOL、WCCなどの支持と協力を得て展開された。国連での活動は1992年頃から主に国連人権委員会小委員会を足場にして行われ様々な報告と決議がされてきた。

日本弁護士連合会による国連ロビー活動・IED報告書
日本弁護士連合会(日弁連)は1992年に戸塚悦朗弁護士を海外調査特別委員に任命。海外の運動団体と連携し、国連へのロビー活動を開始し[3][4]、同1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発(IED)代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していく[5][4]。

1993年5月小委員会で日本政府に対して、元慰安婦に対して個人補償を勧告するIEDの最終報告書が正式に採托され、日本政府に留意事項として通達された。1993年7月国連人権委員会の「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」で「戦時奴隷制問題」の特別報告者を任命する決議が採択され、スリランカのラディカ・クマーラスワーミーが特別報告官に任命された。

1993年8月には国連人権委員会「人権委員会差別防止・少数者保護小委員会」に特別報告者ファン・ボーベンによる最終報告書提出「人権と基本的自由の重大な侵害を受けた被害者の原状回復、賠償及び公正を求める権利についての研究」が提出されている。

日本弁護士連合会による国連ロビー活動について当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex Slaves またはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたと言明している[6]。その結果、1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され[6]、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual slavery)」と明記される[7]。

日本弁護士連合会と戸塚弁護士の国連ロビー活動については、慰安婦#宮沢首相による謝罪から「河野談話」までおよび慰安婦#国連などでの呼称を参照
アジア女性基金の理事大沼保昭と運営審議会委員横田洋三は、日本の新聞やNGOは、国連の報告書は国連人権委員会の審議をするための材料であり、国連の立場を示すものではないことを理解した上で、外圧のために報告書の意図を捻じ曲げた報道をしていると批判している[8]。

日本政府の動向
この時期日本政府はアジア女性基金を設置し元慰安婦個人への補償を行う方針を決めていたが、1995年4月の現代奴隷制作業部会は「第二次世界大戦中に性奴隷とされた女性の問題に関して」初めて日本政府を名指しし、行政的審査会設置による解決を勧告した。1995年8月国連人権小委員会はこの勧告を受け入れる決議をしている。

Anonymous said...

"Remarks on Northeast Asia" by Under Secretary Wendy Sherman

http://youtu.be/k9lRmwGOgzk

She mentioned to "so-called comfort women". This is just only saying that it undermine U.S. national interests and the security in Northeast Asia. However it looks that she seek that the suppression of Korea/China (rather than the concessions of Japan).
Of course, Korea will start screaming (it's already also in comments at this video), but I think it should be noted that U.S. Department of State's cool attitude.

U.S. Department of State
http://www.state.gov/p/us/rm/2015/238035.htm

Anonymous said...

Incidentally, U.S. Under Secretary's the above speech is Feb. 27.
Mar. 1, South Korean President Park Geun asked for early resolution of CWI to Japan in her speech. And Mar. 2, Japanese Chief Cabinet Secretary Suga answered in the press conference: it has been solved by 1965 Japan-Korea agreement.

Anonymous said...

The 70th anniversary of the end of WW II - this matter will be repeated again and again, this year...

Chief Cabinet Secretary Suga's speech is same as conventional view of Japanese government, but actually, it isn't correct. because, "so-called comfort women" was not exist from the beginning. Japanese government has made major "concessions" already in this respect.

nguyenhuong said...

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