Sunday, July 17, 2016

Race in America

アメリカにおける人種問題

 私が子供の頃、新聞やメディアに対して犯罪者や容疑者の人種を特定すべきではないとの強い運動がまき起こった。もちろん容疑者が逃亡中ならば人種の情報は本人を特定するために重要であるし放送すべきである。

論点はこうだ「レイク・エイローズで二人の二グロが白人から金品を奪った。二グロたちには多くの犯罪歴があった。」

私が子供の頃二グロという単語は一般に受け入れられていたし、ブラック(黒人)自身も自分たちのことを攻撃的な意味では無く普通に二グロと呼んでいた。しかしながら80年代初頭から中頃にかけてニグロという言葉は好まれなくなっていったように思う。二グロからブラックへの呼び名の変化は思った以上に早かった。

ポイントはこうだ、人種に関する情報が必ずしも必要では無い場合であっても多くの記事が人種について言及することだ。「二グロの男が居眠り運転でタクシーを大破させた」(例として上げただけで実際のニュースのタイトルではない。)

二グロであることと居眠り運転で木に突っ込んだことに何か関連性でもあるのか? 例えば「タクシードライバーが居眠りをして木に激突した」でいいではないか。黒人をペンで非難するために必要も無い場合にも人種について言及されてきたことは明らかである。私の言葉をそのまま受け取らなくてもいい。ちょっとニュースアーカイブを調べてみればそれは火を見るよりも明らかだ。

今日、人種について言及することは異常なくらい普通のこととなってしまった。「ブラックの某教授が言った・・・」など。我国は何年にもわたり偏見と戦ってきたが、それが今ふたたび我々を人種偏見へと追い立てている。多くの者にとって人種について言及することは意見を述べたり記事を書く上での条件と化してしまったように見える。

アメリカにおける巨大メディアは、日々、さも人種が重要なポイントであるかのように述べている、たった今発表されたニュースのように:

カスティリャは、彼はブラックであるが、7月6日、セントアントニーのジェロニモ・ヤネツ警察官、彼はラテンアメリカ人である、によって車を脇に寄せられ射殺された。」

これでは白人の警官が無実のブラックを射殺したとの印象を強く与え問題をますます深刻化させてしまうばかりだ。

白人に対する敵愾心を巻き起こそうとしているのは明らかだが、一方で元々ラテンアメリカ人は有色人種である。しかし有色人種であるラテンアメリカ人がブラックを射殺すると、とたんにラテンアメリカ人の彼は白人と報道される、丁度フロリダでツィンマーマンが若い暴漢に襲われ、彼を射殺したときのように。

もちろんツィンマーマンは天使では無い。これは善玉と悪玉の対決ではなかった。どちらも違う意味で悪玉であった。

ツィンマーマンは白人であるからとのことで刺激を受けた白人がブラックを射殺する別の事件を誘引した。

オバマ大統領はまるで狭苦しい部屋の中の象だ。彼は特権と富の中で育ちブラックに特有のことは何も経験していない。にもかかわらずオバマのファンは熱心に彼を応援することで結果的に人種迫害に味方し我が国にダメージを与え続けている。

かつてニュース記事で人種を特定することは人々に冷静に対処するよう求める意味もあった。今日、それは人種迫害の元になってしまった。人種迫害はカチッカチッ鳴る生き餌だ。金と政治的に強い影響力を手に入れるための道具だ。

人種迫害は全ての人にとって有害である。


Race in America
When I was a kid, there was a big push for newspapers and media in general to stop identifying criminals and suspects by race. Of course if someone is a suspect at large, race is an important identifying trait and is important to broadcast.
The contention was in this form, "The two negroes were arrested robbing a white man in Lake Eloise. Both negroes have long criminal records."
The word negro was still accepted when I was a kid, and blacks called themselves negroes in a non-offensive way. It seems that the term lost favor in about the early to mid-80s. The name change was supposed to outrun the image.
The point is, many articles did gratuitously name race when race had nothing to do with the case. "Negro man wrecks taxi after falling asleep at the wheel." (Not a real title, but representative.)
What does being a negro have to do with a man falling asleep and running into a tree? How about, "Taxi driver falls asleep, destroys taxi and tree."
Even as a kid, I could see there was a something wrong with always pointing out someone's race when race had nothing per se to do with the case. This habit did ring of institutionalized racism on the one hand, and just reporting on the other.
Yet there was no doubt that identifying by race was used to bludgeon black people with the pen. Nobody needs to take my word for it. Look back at news archives and the habit will be obvious as sunrise.
Today again, it has become alarmingly normal to identify race as a qualification. "Professor so-and-so, who is black, said..." Our country tried for years to roll this back, now we are backsliding deeper into racism. Race is now seen by many people as a qualification to have certain opinions or observations.
Every day now, the biggest media outlets in America identify race as an important factor, such as in this real just published:
"Castile, who was black, was fatally shot July 6 after he was pulled over by St. Anthony police officer Jeronimo Yanez, who is Latino."
Somehow this gets translated to white cop shoots innocent black guy, and the problem deepens.
On the one hand, while trying to rally animosity against white people, Latinos are grouped as "people of color." But when a Latino "person of color" shoots a black man, suddenly the Latino is a white guy, as we saw in Florida when Zimmerman shot the young thug who attacked him.
Zimmerman was no angel. There was no good-guy bad-guy situation. They both were different sorts of bad guys.
Zimmerman, with his "white name" was raised up as another white guy shoots black guy. Zimmerman was of course a Latino "person of color."
President Obama is the elephant in the room. He was raised in wealth and privilege, has no experience with the "black experience," yet Obama fans the flames that are damaging our country.
In the past, identifying race in news stories was often a means of keeping people "in their place." Today, it has become race-baiting. Race-baiting is clickbait, a naked grab for cash and political clout.
Race baiting is damaging everyone.





5 comments:

Unknown said...

記事を見ていて、日本の天皇陛下に対する報道を連想した( º﹃º )

Anonymous said...

米ルイジアナ州で警官3人撃たれ死亡 CNN報道 2016/7/18 1:10
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASGM17H4B_X10C16A7FF8000

先日の警官狙撃事件が転機になったんですかね。
「目には目を」が拡大するとアメリカ社会の混乱は避けられない。
黒人に加えてラテンアメリカ系や中韓系が絡んで来るとカオスになりかねない。
白人が少数派になった時のアメリカはどうなるのか。う~ん、想像したくない。

おっとと said...

いちいち個々のニュースに対して
人種を書くことは人種差別を助長するが
だからといって完全に伏せてしまうのは、問題を潜在化してしまう。

日本在住の犯罪者の統計を見れば、中韓人の比率が高いことは明白だ。
記事では人種を書かずに、例えば犯罪者の人種別犯罪カウント数を毎日記載すればよい。
そうすれば、その記事の犯人の人種が推測できる。
統計を人種差別だという人がいても無視すればよい。

sute said...

情報を都合のいいように削って問題を覆い隠すのはジャーナリズムじゃない。
サビを削らず上からペンキを塗りたくっていたらいつか大変なことになるよ。
まぁ今の時代インターネットがあるので情報操作は難しくなってるので心配することはないけどね。



てかインターネットの普及があと10年、いや5年遅かったら日本やばかったわぁ…w

laughing Salesman said...

>The word negro was still accepted when I was a kid,

ニグロの単語が受け入れられていたのはヨン様が子供の頃の話。今、黒人をnegroと呼んだら、ぶん殴られます。良い子の皆さんは、必ず、blacksと呼びましょうね。

私の見るところ、黒人らは「ふてくされ」ているのではないかな。レストランの中で客がいるのもかまわず数人の黒人女の従業員が大声で痴話話にうち興じていたり、集団で街角に屯していたり、バスの中で音響機器をがなりたてたり、交差点のど真ん中にオープンカーを止めて、そこでエレキギターをがんがんならしたり、私の米国旅行中に受けた黒人にたいする印象は良いものではない。その「ふてくされ」の半分は、かつて奴隷であった、今も失業率が高い、陰に陽に差別されているという社会的要因があるけれども、だからといって、そのせいにばかりできない。責任の半分は自ら立ち上がろうとしない自分たちにある。

我々の人生も同じ。「極道の妻」から弁護士・大阪市助役になった大平光代さんは、学校のいじめからグレて非行に走る自分について父の友人と相談しているうち、「あんたも、いろいろ言いたいことはあるやろ。けど、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたが悪いんや」と言われてハッと目が覚め、一念発起して司法試験を猛勉強、ついに弁護士になったという。

混血が続いた結果、今のアメリカで純粋に黒人と言える人はいない。高い軍歴やスポーツ選手、社会的地位を得た人も数知れない。一言だけ、彼らを弁護するなら、何世代にも渡り市場でお父さんが幾ら、お母さんが幾ら、子供が幾らと売られ続けた結果、個々人がばらばらの存在となり、彼らに独自の文化が育たなかったことだ。

数年前にロス暴動があり、韓国系の商店が黒人らに襲われているのを見て、私などは「黒人好きだわー」とか思いましたけどね。